料理のうつわ十問十答

京焼の個性と、その名工たち

樂焼を通して、京都における焼き物の一つの変遷を5回にわたって学んだ本連載。今回は、「京焼についてもっと知りたい!」という『菊乃井』の村田知晴さんのリクエストに、『梶古美術』の梶 高明さん・燦太さん親子が応えます。地元のうつわの話とあって、京都の老舗の次代を担う若手料理人も集結。京焼の始まりから開花、そして仁清、乾山、永楽といった憧れの名工たちの時代へ。基本のキから学びたいと、まずは「京焼とは何か?」という素朴な質問から、十問十答は始まりました。

文:梶 高明 / 撮影:内藤貞保
答える人:梶 高明さん

『梶 古美術』七代目当主。その見識と目利きを頼りに、京都をはじめ全国の料理人が訪ねてくるという。朝日カルチャーセンターでは骨董講座の講師も担当。現在、「社団法人茶道裏千家淡交会」講師、「NPO法人 日本料理アカデミー」正会員、「京都料理芽生会」賛助会員。
梶 古美術●京都市東山区新門前通東大路通西入ル梅本町260 
https://kajiantiques.com/

質問する人:村田知晴さん

1981年、群馬県生まれ。『株式会社 菊の井』専務取締役を務めながら、京都の名料亭『菊乃井』四代目として料理修業中。35歳で厨房に入り、現在5年目。「京都料理芽生会」「NPO法人 日本料理アカデミー」所属。龍谷大学大学院農学研究科博士後期課程に在籍し、食農科学を専攻している。

共に学ぶ人:梶 燦太さん

1993年、梶さんの次男として京都に生まれる。立命館アジア太平洋大学国際経営学部を卒業後、『梶 古美術』に入り、現在2年目。八代目となるべく勉強中。

(第1問)

京焼とは、どんなものでしょうか?

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村田知晴(以下:村田)
京都の焼物といえば、清水焼のように工房で造られたものもあれば、樂焼、永楽、仁清などの焼物師の家系でつくられたものもありますが…。すべて京焼なんでしょうか?
梶 高明(以下:梶)
京焼とは何ですか?という質問は、日本料理って何ですか?と聞かれているようなものです。日本料理=日本の料理であり、でもラーメンがそうか?と尋ねられたら、ちょっと違うなぁ…となるでしょう。
京焼は京都でつくられた焼き物の総称でありながら、単にそれだけではないのです。
清水焼も永楽も仁清も京焼で、その中には陶器も磁器もあります。ですが、樂は含まれないんですよ。
村田:
え! そうなんですか? なぜでしょう。
梶:
ラーメンと同じ意味で、ルーツが違うということでしょうね。樂の初代・長次郎の父である阿米也(あめや)は中国からの渡来人とされています。樂の技術は、明代後期の南方中国で焼かれた「華南三彩」に通じていると樂家も考えておられるようです。渡来技術が基礎にあるから、樂焼を京焼には含まないということだと思います。
村田:
では、京焼にはコレといった特徴はあるのでしょうか?
梶:
信楽や瀬戸などの六古窯のように、京都は土に恵まれていたとは言えません。土は他の産地から取り寄せることも多く、京焼には、土はこれで、釉薬はこう、と決まったルールがありません。
ただ、大事なことは、京都という都で育まれた焼物ということです。
この京都には、陶磁器を美術品にまで高めた茶人や数寄者もいれば、宮家もあって、社寺仏閣も多い。日本の文化の最先端があった都でした。日本の焼物が発達する以前は、唐(から)ものが、次に高麗ものが珍重され、これらの文化も引き継いで、京都ならではの焼物が育まれたんですね。そこには、数寄者からの厳しい注文が入ることで、その要望に応えようと、つくり手が鍛えられた、という背景もあります。
ですから京焼は、表面上は和やかでありながらも、とても気配りのされた緊張感あるうつわなのです。

ten0007逕サ蜒十2021_09_24_00061明時代につくられた華南三彩の鉢。すでに奈良時代にはこのような技術が伝えられ、奈良三彩が焼かれていたが、これはその後の桃山以降に伝わったもの。この焼物の技術を伝えたのが樂家のルーツに繋がると考えられている。

(第2問)

これぞ京焼といううつわは?

村田:
梶さんが、これぞ京焼と思う焼き物はありますか?

ten0007逕サ蜒十2021_09_24_00346編み笠模様の向付。透明釉の下に薄い錆釉(さびゆう)と呉須(ごす)の軽やかな運筆で描かれた網模様。縁の凹凸も、わずかに尖らせた両端のうつわの品格を高めている。

梶:
例えば、この編み笠のうつわがそうです。おそらく江戸中期のものでしょうね。
この意匠が編み笠だと分かる方は、かなり文化度が高いと思います。編み笠をすべて描写せず、使い手の想像に委ねているところが、洒落ていて品があると思います。こういう美的センスというのは、京都だからこそ育まれたものだと思うんですよ。「あなたは教養が高い人だからすべて描かなくても、分かりますよね。」と言われているようで。このようなうつわを使う茶会や食事が文化遊びなのだということを、表しているみたいでしょう。
この酒次(さけつぎ)も、実に京焼らしいと僕は思います。絵画や着物の柄として描かれた意匠が、陶器にも描かれるようになったのでしょうね。

ten0007逕サ蜒十2021_09_24_00389珊瑚(さんご)・打出の小槌(こづち)・宝珠・丁字・巻物・隠れ蓑(みの)・隠れ笠を描いた宝尽くし。竹を編んだ繊細な取手にもデザインへのこだわりが表れている。ten0007逕サ蜒十2021_09_24_00399

梶 燦太(以下:燦太)
底に「美山」と記してあるのですが、美山は江戸期に大変栄えた京都の窯です。
梶:
ただ、こうした古い京焼というのは、あまり残っていないんですよ。
村田:
なぜ残っていないのでしょうか?
梶:
この酒次も編み笠のうつわも、とても薄くて軽いでしょう。京料理の味付けと同じだな、とよく思うのですが、薄くて軽いことが上品だと焼物でも感じさせてくれます。その反面、京焼はデリケートで耐久性に乏しいんです。
実はこの酒次、元は先ほどの編み笠のうつわのような色合いだったことでしょう。京焼というのは、こんな風に水分や酒を吸い込んで、年月と共に変色していくのです。編み笠の向付に比べると、細やかな貫入に色が入り込んでしまっているでしょう。清潔に使っていても、長い年月のうちに、黒ずんでいくことは避けられません。時には不潔だと感じるくらいの使用感が出てきてしまいます。そうして数多くの京焼が廃棄されてしまったのでしょうね。
村田:
元の色に戻す方法は…ないですよね?
梶:
漂白したら良さそうなものですが…そうすると、えらい目に遭いますよ。陶器の中に墨汁でも入っていたの?と思うほど、黒ずんでしまいます。京焼は、磁器以外、絶対に漂白してはいけません。
汚れやすくて、その汚れを元に戻すことが出来ないという意味でも、京焼は料理のうつわとしては決して使い勝手のいいものではありません。けれども、それを補って余りあるくらいの品があるでしょう。昔は裕福な階級の人々が使っていたわけですから、汚くなるまで使い込む意識がなかった。だから、耐久性は必要なかったのかもしれません。

(第3問)

京焼のルーツとは?

村田:
京焼の始まりはいつ頃なのでしょうか?
梶:
明確にいつから、というのは難しいですね。江戸時代に発展したのは間違いないので、この時期を京焼の始まりとする方もいらっしゃるのですが、ルーツとなる焼き物として、僕は幡枝焼(はたえだやき)があると思っています。
知晴さんの奥様は結婚される前に、葵祭で斎王代(さいおうだい)をされたでしょう。斎王というのは、天皇の代わりに伊勢神宮の天照大御神にお仕えしていた女性のことで、天皇の娘や姉妹などから選ばれたことも多いと聞いています。
源氏物語にも描かれていますが、平安時代初期、伊勢にお勤めに入られる前に身を清めるためお籠(こも)りになった施設が、嵯峨野の野宮(ののみや)神社に設けられました。その斎王のおそばに仕える人の中に、神事に使う土器(かわらけ)を焼く職人もいました。やがてその土器師(はじし)の一族が分家して、現在の左京区の岩倉幡枝あたりに移り住み、土器を焼き始めました。これを幡枝焼と呼ぶのです。
燦太:
幡枝土器は、京都市内の社寺仏閣に納められたそうです。
梶:
それ以来、岩倉に土器師が集まって、それがまた枝分かれして、深草や粟田という場所でも土器がつくられるようになっていったようですよ。

(第4問)

京焼の名産地といえば?

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村田:
京都には、清水焼を筆頭に、〇〇焼というのがたくさんありますよね。
燦太:
江戸時代は、京都の至る所に窯がありました。御菩薩(みぞろ)焼、岩倉山焼、粟田焼、錦光山(きんこうざん)焼、美山窯、帯山(たいざん)窯あたりが名高いですね。
梶:
登り窯は坂の斜面を利用して築かれていて、効率の良いように下方から焼成していきます。つまり、京都盆地の地形はどこにでも窯を造りやすかったのでしょうね。
そんな京焼の窯の中でも中心的な存在であったのが粟田で、知恩院あたりから南禅寺にほど近い蹴上(けあげ)までの一帯を指します。渡来人が粟田のあたりで茶入を焼いていたとも言われるところに、やがて瀬戸からの陶工たちや幡枝の職人たちも混ざり、京焼が発展していったのでしょう。

(第5問)

清水焼は磁器ですか?

村田:
京焼と清水焼ってどう違うの?と聞かれることがあるのですが…。
梶:
清水焼と京焼を同じとする方も多いでしょうし、それに私も異議を唱えることはありません。
しかし、私たちの業界でも、京都人の暮らしの中でも、清水焼は京焼とは別のものとして分けているように思います。清水寺あたりから南方向へ、蛇ヶ谷(じゃがたに)と呼ばれた今熊野(いまぐまの)、そして泉涌寺(せんにゅうじ)にかけて焼かれた磁器を、日常的には清水焼と呼んでいます。昭和40年くらいから山科地区に開かれた清水焼団地も、その内に含まれるでしょう。この清水焼の磁器の原料となる陶石は、九州の天草陶石です。
清水焼や京焼はそのようなあやふやな形で区別されているのです。それでいて、器用なことに多くの窯元は陶器も磁器も、染付も色絵もつくっているのが現状です。
村田:
なるほど…。僕は、清水焼は磁器だと思っていたのですが、陶器もあるんですね。
梶:
私的には清水焼はおおむね磁器のことを指していると言いたいのですが…。
粟田焼などの京焼陶器と区別するために、京焼=陶器、清水焼=磁器とする人が出てきて、今は通称のようになっているのでしょう。

ten0007逕サ蜒十2021_09_24_00377十二代・永楽和全造 麦藁手(むぎわらで)蓋茶碗。蓋も身も口に向かって穏やかに開いていく形が、とても洗練されている。麦藁手と呼ばれる細い線描きは麦の穂から発想された模様。複数の色彩を用いて華やかに見せている。

(第6問)

仁清の登場で京焼は変わった?

燦太:
京焼の繁栄に欠かせない人物といえば、仁清です。
17世紀後期に活躍した陶工で、焼物師個人として名が知られるというのは、樂家を除けばこの人が最初だったのではないでしょうか。それまで陶工は、個人名で活躍している焼物師ではなく、窯を運営している棟梁のような感覚だったと思います。
梶:
本名は野々村清右衛門。丹波国(京都府南丹市美山町あたり)の出身です。
丹波に出て焼物の基礎を学び、都に来て、粟田で茶入などをつくるようになったと言われます。さらに、釉薬を学ぶため瀬戸へも行きます。腕を磨いて京都に戻ってきたところで、武家茶人の金森宗和(そうわ)に見出されます。
村田:
飛騨高山のお殿さまの息子さん…でしたっけ?
梶:
そうです。長男ですから本来は家督を継ぐはずだったのですが、大坂冬の陣で父親の逆鱗に触れ、勘当されて都に暮らしていたのです。
応仁の乱以降、荒廃していた御室(おむろ)の仁和寺(にんなじ)を再建する計画があり、金森宗和は仁清を連れていきます。仁和寺は単なる宗教施設ではなく、天皇が出家後の住まいする隠居所の性格を持っていましたから、様々な貢物に対しての返礼品や、社交的な贈り物として焼物を必要としていたわけです。
燦太:
こうして仁清は御室焼を始めます。後世でいう御庭焼(おにわやき)ですね。
丹波・京都の粟田、そして瀬戸で学んでいたので、あか抜けたセンスと確かな技術を持っていたのでしょう。御室焼は瞬く間に名を挙げ、“仁和寺の清右衛門”は略して仁清と名乗るようになっていきます。

(第7問)

京焼は薄手のものが多い?

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ten0007逕サ蜒十2021_09_24_00362高麗の御本茶碗を手本にした仁清の茶碗。ろくろで生地を極限に近い状態まで引き上げ、わずかに歪ませて、高台にも指跡を残して景色を作っている。白赤く浮かんだ本斑(ほんぷ)から茶碗の銘は「多つた(龍田)」と御西(ごさい)天皇の花押(かおう)と同じ朱漆で記されている。

梶:
知晴さん、こちらが仁清の初期の作品です。この箱書きは仁清と同時代の御西天皇によるものなんですよ。
村田:
色絵ではないのですね。
梶:
御室焼の開窯は正保年間(1644~1648)で、これはその頃の作品ではないかと。まだ印がなく、印を授けられる前の作品なのでしょう。僕の中の仁清の基準となる茶碗です。
この茶碗は、とても薄いでしょう。僕は、仁清の作品の最大の特徴は薄いことだと思っています。当時、格式が高いとされた高麗茶碗を手本に、ろくろの達人だった仁清は、その技術を見せたいからとさらに薄くつくっています。そんな本家を超えていこうとする気概がこの茶碗には見られます。
燦太:
京焼は全般的に薄手です。磁器も陶器もそうです。仁清の作風が京焼全般に影響を与えて、薄さの中に美を見出していったのでしょうね。

(第8問)

色絵のうつわの登場はいつ頃ですか?

村田:
仁清が色絵を始めるのはいつ頃でしょうか?
梶:
そのあたりまで詳しく記した資料に出合ってないので、はっきりしたことは分からないですし、あくまで僕の推測なのですが…。
1640年頃に、伊万里で色絵が焼かれ始めます。それ以前は染付しか焼けませんでしたが、この頃に滅亡間近の明の景徳鎮(けいとくちん)から色絵の技術を持った陶工が日本に渡って来たようです。それが伊万里を飛躍的に発展させました。その陶工の幾人かは京都にも来ていたのではないでしょうか。そして、その色絵の出現は仁清にも大きな影響を与えただろうと思います。
村田:
京焼に色絵を持ち込んだのが仁清なのでしょうか?
梶:
そうでしょうね。少なくとも色絵の京焼を確立したのは仁清に間違いありませんし、その後の京焼のみならず、日本の陶芸に与えた影響は絶大なものがあります。それくらいの偉業として評価されたからこそ、彼の作品は国宝に2点、重要文化財に19点の指定を受けているのです。

ten0007逕サ蜒十2021_09_24_00367仁清写し 松竹梅小皿。仁清の作風を取り込んだ永楽家の技。金彩をふんだんに使いながらも上品にまとめている。昭和初期、陶磁器の輸出で成功した薩摩・九谷に遅れず京薩摩と呼ばれた作品制作に力を注いだ京都の窯主たちの影響が、永楽家の作風にも表れている。

(第9問)

仁清の時代の後、京焼を牽引していくのは?

村田:
仁清に続いて京焼を牽引していくのはどういった名工なのでしょうか?
燦太:
まずは尾形乾山(けんざん)ですね。乾山は仁清から手ほどきを受けたとされています。
江戸末期になると、初代清水六兵衛、初代高橋道八、奥田潁川(えいせん)、青木木米、仁阿弥(にんあみ)道八など綺羅星のごとく名工が活躍します。そして現在でもその技を伝えている永楽家では十一代・保全が活躍します。
梶:
保全は紀州の徳川治寶(はるとみ)公にとても気に入られて、「永楽」の名をいただきます。それまでは、西村を名乗っていました。保全の父である了全は樂家で茶陶を学ぶのですが、この人が交趾(こうち)の写しを始めます。交趾というのは、中国南部やベトナムにルーツを持つ焼き物で、とても色鮮やかです。先ほどの編み笠のような京焼とは一線を画すような作風でしょう。こうして、京焼の流れとは別軸のものとして、永楽の個性が生まれていくのです。

ten0007逕サ蜒十2021_09_24_00372幡枝焼のように低温で焼き上げた土器に永楽家が黄色の釉薬を掛けた黄交趾。装飾がされていないのに柔らかな質感が際立っている。「昔の陶工たちは、技術に走るだけでなく、こんな素朴な魅力も見落としていなかったのですね」と梶さん。ten0007逕サ蜒十2021_09_24_00384十六代・永楽即全造 黄交趾菊向付。永楽家は交趾焼を正確に写すことに重きを置かず、京風の華やかさや上品さを加味することが自分たちの仕事だと考えていたよう。「菊の花をうつわの形に仕立てた発想も見事です」。

(第10問)

交趾を十八番とする永楽の個性とは?

燦太:
以前(樂4回目)、永楽となる前の西村家は、土風炉師だったというお話をしましたよね? 保全の父の了全が、天明の大火の後、樂家で焼き物を学んだ、ということもお伝えしたと思います。
この時、紀州の治寶公が開いた御庭焼についてもお話したのですが、知晴さん、覚えていますか?
村田:
そうでしたね。先ほどのお話だと、この御庭焼をつくるのに、永楽家を名乗る前の西村家も紀州に呼ばれたということですよね。
梶:
その通りです。御庭焼は多彩ですが、その中に鮮やかな青色の交趾があります。この技術を伝えたのは、永楽の了全・保全です。永楽は、この交趾を十八番として、さらに作風を広げていこうと、中国の呉須赤絵(ごすあかえ)や、ベトナムの安南写しなど、いろんな焼き物に挑んでいきます。
ちょっと面白いお話がありましてね。
十二代の和全の頃、永楽は新たな窯と仕事場を造ろうと、仁和寺の辺りで土木工事を始めます。するとそこから仁清の焼き物がたくさん出土してきたそうです。「自分は仁清の窯跡で作陶をしようとしていたんや。焼き物の神様の後を継ぐのは自分なんじゃないか」と、和全は思ったのかもしれません。その後、仁清写しに傾倒していくことが彼の残した作品から読み取れるのですよ。

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